楽古舎(玉鉾会)と伯家神道
白川伯王家に伝わる神道を称して、一般的に「伯家神道」「白川神道」という名称が浸透していますが、抑々は江戸時代おける諸家神道(吉田神道、橘家神道、賀茂神道など)その他の神道と区別するために使われている名称です。
和学教授所では従来白川様に憚って伯家神道とは使用しておりません。和学教授所では「惟神道神傳相承審神古傳」「審神神事神傳相承修行法」と称しております。
玉鉾会で記載するに当たり、一般者に分かり易くするためにあえて伯家神道という言葉を使用しておりますことを了承ください。
平安時代中期より900年間白川家に継承されてきた神祇官統領神祇伯王家は明治新政府の政策により、明治4年51代白川資訓が神祇奉還することにより途絶えてしまいます。
白川家からのご神行を受けた高濱清七郎源正一は白川家門外不出の古伝神事を残さんとして娘婿宮内忠政と共に明治25年神道古傳和学教授所を創設。
その流れは弟子2名の神傳継承を経て宮内忠政の娘中村新子に継承。新子は和学教授所復興の為に石井鹿之助(白峰神宮宮司)の助言協力を得て布教活動。その時の手足となったのが和学教授所理事新宮幸勝です。
その新宮宮司から神行の手ほどきを受けたのが高濱浩と楽古舎舎主・玉鉾会神事長永川辰男になります。和学教授所の神行は中村新子が多くの弟子を取らなかったために一般に広くは普及しませんでした。それが後における継承の危惧となったのです。
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玉鉾会の設立
玉鉾会の伯家神道は和学教授所の審神神事の伝統を唯一継承してきている会です。舎主が神行に入ったのは昭和53年です。当時は今のように興味を持つ人はなく、伯家神道の名称すら忘れられていました。
和学教授所も中村新子亡き後衰退して、新たに生徒を受け入れる状態ではありません。それを危惧して新宮幸勝は私と高濱浩に神伝相承されたのです。当時6代安見晴子は病床に伏しておられました。
因みに昭和15年和学教授所の名簿には総監白川資永、神事長中村新子、神事長代理安見晴子、相談役吉田茂、理事新宮幸勝と記載。
人間には目に見えない糸引く神縁、霊統があるものです。私が伯家神道のお行を行うのも不思議な神縁です。分かり易く図式すると以下のような霊統で結ばれています。
① 白川資訓→②平田銕胤→③丸山作楽→④今泉定助(川面凡児)→⑤横井時常・新宮幸勝(中村新子→平田貫一。安見晴子・高濱浩)→永川辰男
② ③、その流れを簡略すると、私は永川(ながかわ)と名乗っておりますが、それ以前は江川の姓で肥前島原藩。肥前島原藩に勤王家で後に外交官となった丸山作楽がいる。丸山は国学を平田銕胤に学び国事に奔走。明治2年樺太出張時、早くにもロシア南下対抗策を打ち出すも政府に却下される。日露戦争勃発30年前に既に丸山はロシアの危機を考慮していた。明治15年立憲帝政党を結成して保守的政治家として国防論を提唱。
丸山の書生として薫陶を受けたのが今泉定助です。
今泉定助から皇国思想を受けその薫陶を受けたのが近江神宮2代宮司横井時常です。
④、今泉定助(1863~1944)宮城県白石市出身。神宮奉賛会会長。日本大学皇道学院院長。皇典講究所理事。(財)皇道会会長。「憂国概世の神道思想家」
⑤、横井時常 1905年~1998年2代近江神宮宮司。横井宮司が戦後混乱の神社界の中で靖国神社を今に残した功績は多大なるものがある。
内務省神祇官として全国神社界の指導を行っておられましたが、筑波氏との縁を受けて靖国神社権宮司を拝命。靖国神社権宮司であった横井は、終戦後GHQ(連合国軍総司令部)が日本に滞在して戦後処理をしている時に、靖国神社の危機に直面。
GHQは国家神道と言う造語を作り、日本の解体として精神思想の破壊にありました。日本人の精神的支柱である神道、および神社の廃絶です。最初のやり玉が靖国神社でした。戦争で亡くなった軍人を祀る宗廟たる靖国神社は敵視されたのです。
その時のことを横井宮司は「日本の神とゴッド」をどのように話してよいのかと苦悩した事を度々私にお話しされました。
「神は世界どこの国においても全ての宗教の根源であるとして…キリスト教などの他宗教との共存共栄を目指す世界宗教としての神道に生まれ変わる」
として、これより他宗教を受け入れます。俗に横井神道とも言われる起因はここに生まれたものと思っています。
昭和23年靖国神社退職後、広島護国神社宮司となられ、その後近江神宮2代宮司として就任します。
⑤、近江神宮初代宮司は平田貫一です。鹿児島出身。昭和5年神宮皇學館館長(学長)。戦後、神社本庁事務総長(神社本庁総長)。新設皇学館大学初代学長。戦前に中村新子からの指導を受けておりますが一時的なものです。
横井宮司の秘書として横井神道なる神道学を学んだのが私永川辰男になります。皇国の精神は平田銕胤より丸山、今泉、横井、永川と脈々と受け継がれております。横井は今泉との関わりで川面凡児との親交を深めます。そこには今泉提唱の実践神道があります。
今泉は川面の実践的神道論に影響を受け、本居宣長以来の国文学神道論に実践的神道論を加えて「皇道」を起て。昭和15年皇道会設立。神道は理論、机上論でなく実践にあると提唱。今泉は「大祓は行事であるのに行事を捨てて文献たる祝詞のみを解釈しているために、大祓の真の精神をつかめない」と述べている。大祓の根源は神であり、神人合一が祓いの目的であるとしている。
楽古舎で行っている呼吸法、古医道、霊動法、言霊学、年中行事は伯家神道を習得した実践的神道から生まれたものです。
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玉鉾会の行法の特色(審神神事)
ご神行の行法が「御生れ神事」(ミアレ)にあるという事です。「ミアレ」とは生まれ変わり、「ヨミガエル」というように健全な心身に再生されることにあります。「ミアレ」となるために「祓へ」があります。その為の禊祓いの行であると言えます。祓われることにより「ミタマ」が清められていく、そのお行を行っている訳です。
現在、誤解されているものに「お道の行法」を伯家神道と言っておられる向きがありますが、「お道の行法」とは審神神事、幽斎神事に入るためのお行の段階です。江戸時代までは宮中の祭祀女官によって審神神事が御取り立てなされていました。その御取り立てができるためのお行が「お道の行法」になります。
白川一門に言い伝えられている言葉に「天子様は居ながらにしてこの世の動きみておられる」と言われています。これは宮廷の玉座におられても世の中の社会情勢がお分かり頂いているという事です。祭祀女官による幽斎神事によって現況の社会情勢を知る神託を聞く「神移し」「口移し」が行われていました。此れこそが伯王家が行った伯王家に伝わる神事です。
「お道の行法」では「我が身を神籬とする」とあります。わが身に神を迎えて「神人一体」となることです。神を我が身に迎えるためには穢れた心身では神を招くことはできません。それゆえに祓いに祓いをかけて祓い清め「ミタマ」を祓い清めるミタマ磨きを行うのです。
祓い清めることにより、神のみ心に適うミタマとなりえるのです。「神人一体」となることにより自ずと運気が開かれて行きます。
玉鉾会の特色として顕著なものに、和学教授所に伝来して来ている審神神事を唯一残している会です。当会では修行の段階を「お道の行法」と「審神神事」とに区別しています。その代表的なものとして「物忌みの伝」(御座立の神事)、「忌廻清廻の伝」「掛巻の伝」「天宇受女の伝」など20数種の審神神事を今に残して行っています。
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行法がすすまれた人には、古例にならって楽古舎からの「許し状」を出しています。 |
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